Thursday, January 18, 2007

ペルー旅行記-3

次ぎ、5日目いきます。

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5日目(1月13日)

朝ホテルのチェックアウト時間ぎりぎりまでゆっくり寝てMachu Picchu再訪問。この日は遺跡内部をジックリと。 この町は主に、神殿や広場も含む居住区と段々畑で構成されている。

遺跡は1911年にアメリカ人の歴史学者Hiram Binghamによって発見されたとのこと。この都市は、スペイン人によるインカ帝国征服の際、インカの人々が山奥に逃げ込んで作った都市だ、とか、逃げ込んで作ったような急造な都市ではなくもっと綿密な計画をもって時間をかけて作られたもの(そしたら何故あんな所に作る必要があったんだろうか?)、等の説はあれど未だに建設の目的はまだよくわからないらしい(地球の歩き方は、後者の可能性が高いような書きぶりではある)。 このmysteriousなところも魅力の1つ。

スペイン人の手がはいっていないこのインカ帝国独自の都市の遺跡を見て、僕なりの問題意識で考えたこといくつか。

一つ目:水資源の確保。

人間が生活するにはまずなにより水が必要。農業用水や生活用水の手配をどうしていたのだろうか。

双方とも、供給源としての貯水池などは地形上作れそうにない(都市のすぐ上からまた激しい傾斜が続いている)。恐らく、降雨による表流水や伏流水を最大限集水し、水路等で都市に運び活用するしかないだろう。ペルーは概して雨季乾季が別れている気候だが、2,400mのここでは、ひょっとしたら年間を通じて一定程度降水量があるのかもしれない。実は、気象観測装置が設置されていたのを発見したので(なんでそんなとこに気がつくかな・笑)、現在の雨量データは記録してあるのでは?というか、そういう研究、既にありそうだ。

農業用水については、ざっと見てまわった限り、段々畑に灌漑用水路網が整備されていたような跡は観察できず。ガイドブックに当時のインカ人は灌漑用水路網をきちんと整備していたとの記述があるので、実際はあったのに観光に必要ないということで保存していないか、ないし、ここでの栽培は原則天水等を利用し、余剰水は自然に段々畑を下に流れ結果として田越し灌漑を実施していた、のかもしれない。いずれにせよこれらは想像の範囲を出ないが、思考をめぐらすのもまた面白い。

生活用水については、観光スポットとして「17の"水汲み場"」があり、現在でも水が流れている。当然どっからこの水持ってきてるんだという疑問がわき、調査開始(笑)。観光ルートになっていないところを登ったり、入ってはいけないところに入ってスタッフに注意されながらも、分かる範囲で写真に。






結果、想像通り町の上方で集水したと思われる水を水路に落とし、あとは重力で水汲み場まで引いていた。残念だったのは、その集水地点までは行けなかった事。17つある水汲み場を繋ぐ水路にはカルバートなどもあったりして、ううむとうならされる(ところで彼らはサイフォンの技術も持っていたらしい!)。

当たり前だが、このような環境下で生活をするということで、とても貴重な水を大切に最大限有効利用していたことは間違いないはず。そのための技術も発達していたということだろう。

二つ目:食糧の確保。

もう1つの重要問題。一定期間(説によって、どの程度の期間あの都市で人々が居住していたのかは変わるのだろうが)周囲と隔絶された空中都市で完結した生活を送るとなると、当たり前だが自給自足をしなければならず、従いMachu Picchuには、そんな断崖によく作ったなと思うような段々畑が沢山ある。すごくラフに、簡単な仮定から段々畑の作物生産だけでどれだけの人数が生存可能かどうか、ちょっと考えてみたい。

1.総面積およそ5 sq.kmの3分の2程度が段々畑とのこと(「地球の歩き方」より)。
2.作物は、簡略化の為1作物限定、また乾季に水を供給できる貯水池等も作れないと思われるので、天水で栽培可能な雨季のMaize 1期作と想定。
3.天水に頼っていると想定されることと、また土壌も肥沃ではないだろうから、Maizeの収量は、凡そ2ton/haとする(肥料を投入せず条件の悪い場所ではこの程度)。
4.人々はsubsistenceな生活をしていたと仮定、1人当たりのMaize消費量を、10kg/monthとする(アフリカでの聞き取りを参考)。


これで計算すると、年間の総食糧供給量はおよそ700ton、従い生存可能人口はおよそ6,000人になる。「地球の歩き方」によると、5,000人~1万人が住んでいたとのこと、あながちおかしな数字ではないだろう。

実際は収量がもっと多い可能性もあるし、作物もMaizeだけではなくpotatoやその他多様な作物を栽培していただろう。またこれにリャマやアルパカなどを家畜として飼育し、意外に多様で豊かな食生活だったのかもしれない。

かって繁栄した文明は、周辺農業用地の土壌の地力低下による農業生産量の減少から人口を維持できなくなって崩壊するという説があるが、ここMachu Picchuではどうだったのだろう。そういった知識を持ち、農業生産を継続して行うことで収奪される栄養素を補う為、家畜糞尿を始めとした肥料等を与えていた可能性はあるだろうか。インカ人がMachu Picchuを捨てた理由は段々畑の地力低下だった、なんてこともありうるかもしれない。想像は膨らむ。

三つ目:社会構造。

総面積5 sq.kmのおよそ1/3の地区に約6,000人住んでいた、ということは人口密度が36人/ha(すなわち100m四方に36人)、中野区の人口密度が190人/haなので、このMachu Picchuの状況を考えれば直感的にそれほど密ではないかも。

このような閉鎖系の環境では、秩序を持って社会を維持していかなければ問題が起こりそうだ。ここでは身分によって居住区も分けられていたようで、聖職者は神殿の近く、貴族も標高が比較的高い場所に住んでいたよう。技術者は貴族のすぐそばに居を構えており(多少優遇されていたとのことか?!)、庶民は段々畑の近くに主に住んでいた模様。建物も、神殿や高い身分の住む住居は精巧な石組み技術が使われているが、庶民の住居は粗雑な石組みである。遺跡からそういった身分制度が窺い知れるというのも、感慨深い。後述するようなインカ人の性格もあって、ここでの統治はこのような身分制度も機能してうまく行っていたのかもしれないとまたもや想像してみる。


(段々畑と庶民の居住地)

以上のようなことを考えながら遺跡を見て回る。遺跡を眺めながら、段々畑に農作物が実り、インカ人がこの空中都市で穏やかに生活している様子を想像すると、歴史のロマンを感じざるをえず、感激。

そんなこんなで、Machu Picchuを充分に堪能。ここは間違いなく僕の記憶に強く残る場所になると思う。

そして後ろ髪を引かれる思いでMachu Picchuを後に。Cuscoへ帰る前に、麓の温泉に再度小一時間つかる、ふぅー、やっぱり温泉はいい。次たっぷりとした湯の中につかれるのはいつになるのかな、なんておもいつつ、名残惜しくも温泉を後にし、Cuscoへの帰途につく。



午後3時半Machu Picchu発の電車に揺られること約3時間、夜Cuscoにつき、ホテルへチェックイン。夕食は、2004年にCuscoのベストレストランに選ばれたというバーベキュー料理の店へ。ペルー風のスープ(名前忘れた)と、アルパカの肉を焼いた料理Alpaca a la Planchaを食べた。アルパカはちょっと癖のある味だけどまあ悪くはない。加えてブドウの蒸留酒Piscoに卵白とレモンを加えたカクテル風のPisco sourも飲んでみる。これはおいしい!



夕食後、町をぶらぶらして雑貨屋に入ったりなどする。アルパカ製のポンチョが欲しくなり、店のおばちゃんと交渉して購入。他の店の値段調べる時間もなかったし、あまりいい値切りっぷりではなかったなと自覚はしているものの、

アルパカ製のポンチョ 30ドル
Cuscoでの思い出   Priceless  (Master cardのCM風に)

てなところでよしとしよう(笑)。たぶんこのポンチョ、アルパカ純正ではなく、リャマの毛もはいってるんだろうなぁ。あと、フォルクローレで踊る際にかぶるマスクもあって急に欲しくなりそれもあわせて購入。よし今度いつかネタでかぶろっと。これ、普通に日本とかアメリカでかぶってたら、絶対強盗と間違えられそうだ。

そして夜10時、Machu Picchuで夕食を食べた4人の日本人メンバーで待ち合わせをして、夜のCusco体験ということでclubに行くことに。「地球の歩き方」に書いてあったclubに行って見るとまだ人が入っていなかったため、その時間でも賑わってそうな偶然見つけた別のclubに行くことに。

そこにはダンスフロアの上にいい具合にソファに座れるスペースがあり、とある若者グループの隣に座る。暫く酒飲んでいると、その隣の若者グループと意気投合。チリから来た幼馴染グループとのこと。男1人に女3人で年齢はなんと19~21歳。若っ。男の子が英語しゃべれたので、いろいろ会話を楽しむ。

印象に残ったのは、人種の話。チリでは、スペイン人がインディオをほとんど殺してしまった為、現在スペイン系の顔をしたメスティーソが多いが、ペルーではまだインディオが多く残っており、インディオ系のメスティーソが多く、故にインディオが多いペルーとかつてインディオを殺したスペイン系の多いチリは仲が悪いとか。20歳ぐらいの子達の飲み話だから、本当にそうかどうかわからないけれど、少なくとも現在の人種構成については、Wikipediaのメスティーソの項目に同じ様な話が記載されている。で、その仲の悪さについて、日本と中国みたいなもんだよ、と言っていたらしい(自分は直接聞いておらず、日本人の方に教えて教えて頂いた)。。。そ、そういう理解なんすか。。。ま、それはさておき。

夕飯時に飲んだPiscoについても、その子たちはチリ産が絶対美味い、なんて主張してた。女の子もチリが絶対綺麗なんて自画自賛してたし。

そういえばこの旅行中結構“国”を強調している場面に遭遇した。Machu Picchuでも、アルゼンチンの旗を振っていた奴や、ブラジル賛美を叫んでいた奴を見かけた。

国と民族の関係について、仕事で海外にいくようになってから徐々に思うようにはなってきたし、また多民族国家のアメリカに住むようになってより一層考えるようになってきた。これは一般的に日本では意識しなくてもよかったことなので、なかなかすぐにピンとこないissueではある(もちろん、日本にも考えないといけない事はあるんだけれど)。まだまだ考え込めていないので、今後勉強していければと思う。

さて、深夜1時ぐらいにもなると、もはやフロアは人が寿司詰め状態。。音楽はオールジャンルで、若者向けの南米の曲などもあったらしく、皆たのしそーに踊っていた。この日は、結構若者について行けてた気がする。がんばれおじさん(笑)。

1時半頃皆とお別れし(20歳ぐらいのぴちぴち女の子達とのhug、おじさんうれしいながらも緊張・笑)、宿にもどり就寝。高所最後の日ということで、お酒がんがん飲んで踊ったりしたけど、結局激しい高山病はかからずじまい。ラッキー。

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ココまで。

2 Comments:

Anonymous Anonymous said...

その洞察力に感動です。
やはり生活基盤づくりの仕組みを知ってからの旅では視点が異なりますね。居住人口をここまで計算するとは・・・笑!!

しかし、そう言われてみると、マチュピチュの神秘性が倍増ですねえ。工夫すれば、一見困難な生活環境でも豊かな生活ができるんですね。インカ人の発想力とそれを支える技術力に改めて感動です。

8:48 AM  
Blogger nakacho said...

>ノナ

>やはり生活基盤づくりの仕組みを知って
>からの旅では視点が異なりますね。

まさに。より一層深く旅を楽しめるようになってるね。

勉強、仕事、旅、リンクさせていければいいなと思います。

2:05 AM  

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