“Commitする”ことの意味をふと考えることがあった。
少し前に部活の同期と、現役の後輩の為の寄付についてメール上で熱く議論をしたこともキッカケの1つだけど、このcommitという言葉、いろんな対象に用いることが出来る言葉。
辞書を引くと、約束するとか、専心する、義務を負う、などとでている。後輩の寄付に関しては、OBとして現役の部の運営やOB会の運営にcommitできていない中で、寄付の依頼がキッカケだったとはいえ現役のやりかたに評論家的に物申すのは気が引けるというようなcontextだった(それでも客観的な意見として表明しておくことは重要ではないかなというのが僕の意見ではあるのだけど、それはおいといて)。
つい先日も、僕と同じ興味を持っているセネガル人と飲んでいて、「お金は大してもらえないけれど、この仕事を通じて例えばこの地域住民の貧困緩和に“commit”してるんだ」、みたいな内容で熱く彼が語っていた(これはまさに”英語“の単語選定ででてきたものだけど)。
このCommitを、僕は、決意と責任を持って物事に取り組む表明をする、といったような意味で捉えている。CommitできないようならCommitすべきではないし、Commitしたのであれば、それは責任を持ってやり遂げようよということ。また、状況がかわったりどうしてもできないこともでてくるかもしれない、そのときは、自分のプライドより“信”を重んじて正直に、あの時はああいったけどごめん、できなかった、等素直にちゃんと認めたい。
上記は、仕事でもそうだろうし、恋愛や結婚などでもそうだろうし、日々の細かいちょっとした約束などもそうかもしれない。小さなことでも、言ったことをやらなかったり変えたりすることが続くと、一事が万事で人としての信用がなくなるということはあると思う。
また、このCommitという言葉、“愛”と表現してもそれほど離れてはいないと思う。愛する人に対するのと同様に、仕事でも小さな事柄でも、きちんと相対してやり抜こうということかと思う。以前紹介したStanfordでのJob氏のスピーチにも通じる話。
そういえば、その議論の端緒をきった部活の同期は、昔お互い出張であったJakartaで飲んだときに、酔っ払って「Commitしろ!」と散々迫られたのを思い出す。そんときのcommit対象は恋愛だったナ。。
社会では、時と場合によって意図的にずるく行かなければならない時もあるとは思う。けれど、そして自分自身まだまだできてないけれど、自分の発言や行動に対しては責任を持つ、原則そんな責任感のある、素直で正直な人間でありたいなと思う。
追記
おっと、そんなエラソウなこと書いていながら、冬休みのスリランカ訪問について社内誌に投稿するのはどうかと後輩と話をしていたのに、おそよ半年たって全然やってない。。。もう時宜を逃してしまったので、関係各位にもうやらないと謝りの連絡をいれようかな。あ、そういえばYear bookの話も難しそうだし、イサカの詩も書いてない。。。
エラソウに書いてるそばから口ほどにもない、って感じだなぁ。。。
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