Wednesday, January 31, 2007

餅つきparty リハ

今週土曜日に、JGSAとJUSA(underのほうの日本人学生の集まり)が共催する新年餅つきpartyがあります。

今日は授業後、そのリハをJGSA役員、JUSAの方、手伝っていただける方数人と実施。

実際に臼と杵(NYCの領事館から借りたもの)で炊いたもち米をついて餅をつくる本格的なparty。リハということで、本番通り臼と杵を使って餅をついてみました。

こうやって餅つきをするのは何年振りだろう。餅つきをアメリカでやるとは思わなかった。

皆餅つきのエキスパートではないものの、杵もお湯につけておくと餅がつかないとか、臼もお湯で濡らしてあっためておいたほうがいいとか、餅つきに関して知っている限りのtipsを皆で出し合いつつ練習、もち米の芯の残り具合いや炊く際の水加減など微妙な条件を確認し、またリハ後JGSAの役員でApplebee'sに移動し最終的な当日のロジ確認も終了。

あとは土曜日まで各々の細かい担当業務をやりつつ、当日を待つのみ。

今の所、大人と子供合わせて100人ぐらい(!)参加表明を貰ってます。これだけの大きなイベントもそうそうないと思うので、来られる皆さんに楽しんでもらえればと思います。

もし、このブログを見ておられるイサカ在住の日本人の皆さんがいらっしゃれば、土曜日は皆で盛り上がりましょう!

Discussion

月曜日のPlanning and Management of Agricultural and Rural Developmentという授業では、毎回学生が3つのグループに分かれ、与えられた課題に対して時間を区切り、グループで議論し結果を授業の最後に皆の前で発表することが課されています。

Fall semesterに履修した専門分野の授業ではこれほど積極的に議論する機会はなかったので、遅まきながら、自分のfieldにおいて英語で議論する訓練の場がやってきたという感じです。

これまで授業を経て、他の学生の議論の特徴についての一般的な感想は以下の通り。

1.抽象論に終始(議論するテーマで経験がないと、しょうがない)。
2.理想論ばかり述べる(理想論も、一概に悪いとも言えない)。
3.自分の主張したいことを述べるだけで、時間終了時に結論が出てなくても知らん顔(えっ?)。

まだ始まって2週しか経過していないので全ての学生を知らないから早急な結論はいかがなものかとは思うけど、他の学生に対する期待値が高かった分、現時点で特に僕は三番目の点に関しがっかり。結構みんなselfishなのね。仕事してたら、グループとしてのアウトプットを限られた時間に出さなければならない前提で議論をするのが当然の感覚だし、授業でもそういう設定なのだから。ビジネススクールの学生なんかはこの感覚は当然なんじゃないかな。意見の中身は多様でいいのだけれど(だから議論のし甲斐がある)、議論の仕方というか、前提を共有できたら随分楽なんだけどな。

一方、このキモチがもとで、

他の学生に対する期待値が高い→実際は期待値以下→なんで議論まとめようとしないんだとがっかりし、いらだつ→よい議論ができず

という悪循環を自分の中に作ってしまったことも事実(この思考自体は、英語は関係ないよね)。

なんだかんだ言って、上記に気がついている僕がきちんとアウトプットを出す方向にそういう学生たちを導けないのは、結局は自分の力量不足ということ。他の学生に対して過度に期待を持つのではなく、この状況を素直に受けいれどうやったらうまく議論を導けるかという発想でいかないと。また、英語ができない引け目から日本人的感覚で発言をhesitateしてしまう面も、克服しないといけない。

こら自分、ちゃんと英語で議論もできないくせに奢るな奢るな。そして失敗を恐れずもっと発言をして、恥をかきなさい、恥を。恥をかいて大きくなろう。

で、今週の議論では少しでも成長しようと試みた結果、なんとか働きかけてぎりぎり時間内に全ての質問に対してグループとしての答えを準備でき、また議論の開始時にはminorityだった僕の意見が、最後は参加者の間でdominateされたところまでは行きました。ただ、喋ってて英語になってないことも多々あったし説得力のある論理が展開できたかというと甚だ疑問。課題が実務で経験していたissueだったので、realityで押し通せたことが大きかったと思う。課題に救われました。

多少進歩はありつつも、まだまだです。

留学後に英語で議論する会議に出席する機会は普通にあるはずなので(というか、ここに来る前もあったんだけど。。)、特に英語nativeの人達と、ちゃんと英語で議論の前提確認や方向整理をし、また内容についても意見を戦わせることができるよう、この授業を通じて総合的な議論能力を高めたいと思います。

Saturday, January 27, 2007

Spring Semester 最初の一週間

授業が開始し、一週間が経過しました。今週いろんな出来事があったので、備忘録として記録しておきます。

①授業

spring semesterに履修する授業、shopping期間として一週間を費やして、だいたい決めました。今回はpractical、analyticalな授業をメインにして履修することにしており、履修する授業のタイトルは以下です。

Quantitative Techniques for Policy Analysis and Program Management
Quantitative Research Methods
Spatial Modeling and Analysis
Planning and Management of Agriculture and Rural Development
International Development MPS Seminar

先学期履修したEconometricsやStatisticsの授業の内容と関連していたりするので、知識を深めることができるのではと期待する半面、まだ使ったことのないsoftwareを駆使したり、また使えることが前提だったりする授業もあり、自分にとってchallengingな授業をまたもや取ってしまい、どうなることやら。

②友人の来訪

24日、25日に、大学時代の部活の友人がCampus visitでIthacaに来ました。彼の用事で来たとは言え、この田舎を訪問してくれた初めての友達です。彼とは就職後海外で会うこともよくあり、以前お互いの仕事の出張からJakartaで何度か飲んだりしていて、今度はアメリカで飲むとは、なんともそういう縁を感じます。

授業などもあり、いいオモテナシができたかどうかは微妙ですが、彼もいろいろ感じ考え、用事に対して自分なりの答えを持って帰っていったようで、なにより。気を遣ってもらって日本の雑誌や食糧も持ってきてもらってとても嬉しい。有難う!

久しぶりに旧友との再会はとても懐かしく、また彼はすごく熱い人間で、おおいに語り合い楽しませてもらいました。Visitを終えバスでIthacaを離れる友人をcollege townで見送るときには、ちょっぴり寂しさもこみ上げてきましたが、彼のガンバリを聞いて刺激をもらい、ここで僕も頑張ろうと思いました。 またいろいろプライベートのご指南ももらいました。性格と相談しつつも、take it easy!で行ければと思います。

さて、彼には僕のちっちゃくてmessyな部屋に一泊してもらったのだけど、landlordから借りたair mattress、同じく貸して貰ったair pumpセットにpumpとmattressの空気出入口とを繋ぐ管が入ってなく空気をいれることができず、結局僕はair mattress without air(!)を床に敷いて、そこに寝ました。床は絨毯なのでなんてことはなかったんだけど。。。。air mattressの意味が。。


友達はこの2週間ぐらい大学巡りをしていて、ずっと寒波を引き連れて移動してるって言っていた通り、25日はたぶんこの冬一番の冷え込み。摂氏-10~15度は行ってたんじゃないかな、かな~り寒かった(写真は、campusから歩いて帰る途中の、Cascadilla creekの様子)。









③歯の詰め物

25日、夜飯食ってるとき突然ガリッと取れました。ちきしょー。この歯、昔インドに出張してたときにも詰め物がとれた歯で、痛くなかったから2、3年放置していたんだけど、留学するというのでわざわざ改めて詰め物をした歯です。

普通に日本で生活していればあまり意識することはないけれど、こうなると、今の健康保険のステータスが直にきいてきますね。。

僕は今休職の身分。現在の会社との関係から、残念ながら退職と同じように基本的に会社からは全ての保険関連(厚生年金、健康保険など)の恩恵は受けられないようになっています。年金だけは一応、国民年金に加入して来たけれど、2年間程度なら元気でいられると思い、健康保険は日本でははいりませんでした。アメリカでは学生保険にははいっているけれど、歯科部分はカバー外。なので、歯がおかしくなった場合、アメリカでも日本でも保険がきかず、実費になっちゃうのね。

だからこそ、自分のdecisionの持つriskをhedgeすべく、留学前会社の健康保険に加入していた間に歯医者に2年間問題のないようにしてもらったはずなのに。。。意味ないぢゃん。今後日本に一時帰国した時歯医者に行っても保険きかないし。

ま、インドでとれたときと同じように、問題ない限り放置しそうですが。

④Love Germinates!

略してラブジャミ。学生生活、Ithacaでの生活、そしてアメリカでの生活を楽しもうと友達数人と今月立ち上げた(?!)サークル名。

まずは形からということでT-shirtsを作るべく、そのデザイン作りがby chanceだったけど昨日終わりました。またこのデザインが最高なんだなぁ。作ってくれたのはTちゃん。ほんと、才能ある。まず、僕の抱いてた漠然としたイメージ(American pop)を伝えたんだけど、それをちゃんと理解してすばやくoutputする才能。これ、仕事したらすごく重宝される才能だと思います。

活動内容としては、サルサ教室への参加だったり、NYCへの“ラーメン、spa、カラオケ、club”トリップだったり、formal party開催だったり、企画は澱みなく出てきます。皆で盛り上がって、楽しめたらいいですね。

と、現会員の中で圧倒的に年をとっているのは僕だけ。あれれ、俺こんなことしてていいのかな(笑)。ま、こういうことやるのももう最後だろうし、勉強妨げない範囲ということで、ハイ。

尚、名前の由来は「恋が芽生える」を英語でいうと何だろうって話をしている際に、なんか語感がいいということで採用された名前。果たしてここIthacaで皆にLoveはGerminateするのでしょーか(笑)。

⑤BRUTUS

こっちにきた友達が持ってきてくれた雑誌「BRUTUS」2007年2月1日号の特集は、脳科学者茂木健一郎。茂木健一郎といえば、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」のパーソナリティーで始めて知った人だけど、特集されるということは、最近日本で注目されてるのかな。この番組、内容もよいし、また同じパーソナリティーのNHK女性アナウンサー(住吉アナ;調べてみたら、彼女自分の2歳上だった・・もっと若く見えた)がかわいいので(笑)、出張中などNHKが見られるときによく見ていました(日本では、持っていたテレビが壊れて以降テレビを見ない生活を送っていたもので)。

さて、まだ全部記事をきっちり読んでないのだけれど、ざっと流して共感した彼の言葉を「現代世界の歩き方の基礎知識 モギダス 知恵イチロー」からいくつか。

「情熱と論理。この両方を兼ね備えている人はなかなか見当たらない。(中略)きわめて論理的にして、きわめてパッショネット。そのような人しか、結局信用できない。」

「旅することの歓びは、その土地にしかない「何か」に触れることである。」

「見た目ばかり気にしていて、内面にロゴスがないやつらなんて、全然セクシーじゃねえじゃん」

「ひらめきは一瞬で来る。しかし、そのひらめきを実際に形にして、人々の間で流通するようなものに仕上げるには、長い時間と地道な作業の積み重ねが必要となる。それが、99%の努力となる。」

「いつから、日本はこんな内向きな国になったのだろう。」

「たまには、一世一代のバカをやる、ということを企んでもいい。むしろ、どんなバカをやってやろう、と普段からいろいろ思いを巡らせるべきだ。(中略)つまりこの世は賢いバカが変えてきたということになるんじゃないか。」

「最高の教養を身につけ、最も深い思想を抱け。」

「多様性は、きっと神から人類への贈り物なのだ。」

「農業に携わる人が謙虚になるのは当然だ。」

「自分自身を振り返り、周囲の人たちを観察すると、「プロ」の領域になるほど、無駄な動きがなくなっていくことが了解される。素人はうだうだ無駄が多い。」

「人生の大切な教訓のひとつは、「自分にとって」の切実さを引き受けることも大切だけど、同時に、「世界にとって」という視点を持つべきだ、ということである。」

「モードが変わるのはキモチがいい。ひとつのモードを脱ぎ捨て、別のモードを着る。モードというのは、服のことだけではないのである。」

「何歳のジジイになっても少年の心を失わない人生は上等である。」

「いかに努力すべきか知っている人を「天才」と呼ぶ。」

「いかに「王様は裸である」と言い続け、バカであることのエネルギーを維持し、そして真実と、何かとてつもないものへの愛に忠実であるかということになるのであろうか。他者とは自分を映す鏡である。いろいろな人に会って、磨かなければ曇る。」

「世の中には、よいもの、心を惹かれることはたくさんあるけれども、それに運び去られてはいけない。自分の魂のありかはきちんとおさえておかなければならない。」

「論理的であると同時に、感性のチャンネルを開くということは難しい。(中略)本当に大変なのは、世界知の全体像を見つづけつつ自らの感性を開くこと」


以上、心したいです(ここでは部分を全体から抜き出しているので、彼の本当にイイタイコトが伝わっていない可能性もあります)。

あと、茂木氏とフードジャーナリスト平松女史との対談の記事では、食の話題から、男女の仲やエロス(といっても全然ソフトなレベル)に話がちょびっと展開しているのだけれど、これ、かなり知的な会話だと思う。なんというか、単なるHな下ネタでは全くなく、食に対する深い洞察を踏まえ、男女の仲やエロスとの共通性、analogyから話が発展・昇華していく(言い過ぎか?笑)、めちゃくちゃ大人な会話。こういう会話、美味しいご飯を素敵な場所で食べながら、そういう話をacceptしてもらえる大人な女性とやってみたいものです。ううん、でも僕自身このレベルまで食に対する深い洞察力・知識はないので、まだ無理かな。

最後に、記事にあった鳥取県三徳山三佛寺国宝投入堂、始めてその存在を知りました。役小角が断崖にお堂を投げ入れて出来たとの逸話がある”奇跡の建築”「投入堂」、とても行ってみたくなりました。友達から安藤忠雄関連で勧めてもらった直島とあわせ、建築にひたる中国地方や瀬戸内海を回る旅なんてのもいいなぁ。


と、今回のエントリーは、備忘録的に雑多な話題でした。

Wednesday, January 24, 2007

ダンシング・ハバナ

ペルー旅行からラテン(ラテンも多様だとは思うけど、ま、イメージで使ってます)づいていることもあって、友達から借りた、映画「ダンシング・ハバナ」を観た。

うぅ、最高。ハバナ(キューバの首都)のあのけだるくも情熱的な雰囲気。そしてラテンの音楽と踊り。くぅー、シビレル。キューバ行きたくなった。

DCでお世話になった友達がラテン音楽と踊りが大好きなのも、すごく納得。

また主演の女性も、すごく肉感的・・たまらん(それがいいんだろって、誰かから突っ込みが入りそうですが・・)。

ストーリー自体は、まあ多少安易な部分もあるけれど、踊りと音楽の素晴らしさでnegligible。踊りを中心軸に、一応、恋愛や家族の個人的な話から、キューバの政治体制、アメリカへの軽い批判等社会全体の話までが絡めてあって、ふむふむという感じ。

この映画の踊りがサルサなのかよくわからないけれど、日本で、六本木の「サルサデスダーダ」にたまに行ってた事を思い出しました。行くくせに僕はサルサが踊れなく、悔しい思いを何度かしたことまで思い出しちまった。。。

スペイン語。。
サルサ(勝手にサルサになってますが)。。

できたらいいなぁ。実はPhysical Educationというcategoryの授業で、サルサダンスを学べる授業がofferされてます!履修しよっかなと本気で迷っている今日この頃。。。

では最後に、映画の中で主演女性の相手役の、キューバ人男性役の子が言った印象深い言葉を紹介。

“It’s a dance about being exactly who you wanna be in that moment”

はっきりいって、シビレました。そんなラテンダンス、最高です。

追記
映画、字幕より先に英語がすっと耳から入ってきたことに驚くとともに、ちょっぴり嬉しかった。

Tuesday, January 23, 2007

授業開始

今日からいよいよSpring Semesterの授業が始まった。

キャンパスに学生が戻り、最初に出た授業の開始の際、先生が"Welcome back to Ithaca"と一言。いよいよ5月までの戦闘開始です。

まだ全ての授業にでていないので時間割を最終的に決めた訳ではないのだけれど、pre enrollの時にある程度候補授業を選んでいたこと、また多少は授業に慣れてきたことから、fall semesterと違い滑り出しはまずまずというところでしょうか。

一点、ある授業のgroup discussionの時に、久しぶりの授業ということではりきってとんちんかんなこと発言しまったことを除けば。。ハハハ。

休みボケ、まだとれてないようです。

Monday, January 22, 2007

初スキー in US

土曜日、アメリカで初スキーしちゃいました。

友達に連れて行ってもらったのですが、車で30分ぐらいの距離にスキー場があり、えらい簡単に行けます。

スキーは実に6年ぐらい振り。最初は慣れるまでびびってましたが、体は覚えているもので、最後には大分昔の感覚を思い出しました。

いや、楽しい。そして、風をきって滑るのは、とっても気持ちがいい。

また機会があれば、是非行きたいところです。

Thursday, January 18, 2007

ペルー旅行記-4

最後、6日目から7日目と総括です。

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6日目(1月14日)

Cuscoのホテルをチェックアウトし空港へ。空港でフライト出発待ちをしている時、隣に座った年配のアメリカ人と会話。彼はColumbiaのLaw schoolで勉強した経験のある、現在Atlanta在住のtax関係専門の弁護士とのこと。自分で事務所を開いていて、この1月中下旬がわりと暇になるらしく(自分で仕事してるから自分で調整できるとも言っていた)、奥さんといつも旅行に出かけているらしい。そういうのいいな。自分も将来は嫁さんと世界中旅行などしてみたい(いつになるやら)。メアドをもらい、いつでも連絡してくれとのこと。有難いことです。

そんなこんなでCuscoをあとに。昼Limaに到着。この日の深夜にLimaを出るため、荷物は持ったまま市内観光。

Lima市内も、旧市街が世界遺産に登録されているということで、まずはスペイン風建築物の立つ旧市街の町並みを、アルマス広場からサンマルティン広場を経由してグラウ広場まで、教会等を中心に味わう。余談だけど、サンフランシスコ教会では、あのCuscoのペーニャのお店で会ったJennifer Lopezとなんと再会!「これは運命か」、と思うものの、話かけることもできず素通り(泣)。。ちなみに彼女は僕には気がついていなかったものの、そのグループの一人の男の子が自分を凝視していた。。気がついたんだろうな。だって、自分、踊ってたもんな(笑)。




その後タクシーで新市街であるミラフローレス地区へ移動。まずプレインカ時代の遺跡であるHuaca Pucllanaを見ることに。本当はサンイシドロ地区にあるHuaca Huallamarcaを見てからと思ったが、タクシーの運ちゃんがその場所を知らずか理解せず、直接Huaca Pucllanaへ到着。結果としては時間なかったし、それでよかった。



このHuaca Pucllanaでは、数人の観光客が集まって一緒にまわることになっているのだけれど、同じ回でまわったフィリピン系アメリカ人の女性と話をしていたら、次見に行く場所が同じだったことから、それ以降一緒に観光することに。遺跡から太平洋の見える公園、公園内を海や夕日を見ながら歩き、恋人達の公園までとりあえず移動。

太平洋を東側から見るのは初めてで、あぁ、これが地元藤沢からみる太平洋(正確には相模湾だけど)を反対側から見ているのかぁと思うと感激ひとしお。 また夕日も綺麗だし。



この女性、韓国で英語を教えているらしく、今は、お休みで2ヶ月かけて義理の弟さんの親戚のいるペルー全土を回っている最中とのこと。彼女も一人旅でもう1月強過ぎたそうだから、久しぶりに英語ができる人と会話を楽しみかったのではないかなぁと思う。韓国にいてアジア人にも慣れているということもあったんだろう。彼女はNYUで勉強してた時にNYCに住んでいたこともありManhattan事情にも詳しく、話もはずんだ。

尚、彼女はフィリピン系アメリカ人、妹さんがペルー系アメリカ人と結婚、自分は今韓国で働いているという環境。まさにglobal。

その後彼女とは、レストランやショップが集まるラルコ・マルまで行き、そこで夕食、デザートを一緒に食べることに(彼女はこの辺のお店をよく知っていて、全部連れてってもらったんだが・・)。夕食は、ペルーにきてまだ食べてなかった魚介のCebicheと牛の心臓の串焼きAnticusho、彼女のお勧めのホタテにパルメザンチーズをかけてオーブンで焼いたConchita a la Parmesana。どれも美味しく頂いた。デザートのお店は、ソファなんかあるようなカフェ。ムースとラテなど頼んでちょっとリッチな気分。



最後彼女とは、僕が空港に行かなければならない時間にタクシーに乗るところでお別れ。結局彼女と計7時間ぐらい一緒にいたことになる。怒涛のように話をした(された?)感じ(笑)。でも旅行の最後の最後に、とてもいい思い出になった。

7日目(1月15日)

日付が変わって深夜のDelta便でAtlantaへ。ペルーよ、いい思い出、ありがとう。

Adios, Peru  Hasta luego (あってんのかな? まいっか)。

飛行機では疲れから爆睡。朝8時ぐらいにAtlanta到着。次の便が昼2時頃発で随分時間があったので、空港内うろうろして見つけたソファーに横になりこれまた爆睡。

AtlantaからDelta便でほぼ定刻どおりJFKに夕方到着。ManhattanのKorean townにあるという、Limaで会った女性に教えてもらった韓国spaに行こうとしたのだが、結局見つからず、断念。重い荷物背負ってうろうろしていたので、どっと疲れが。

最後に日本食をと思い最初はラーメン食べようと考えていたのだけれど、お目当てのラーメン屋は遠く、spaの件で精神的肉体的に疲れた僕はそこに行くのはあきらめ、port authority bus terminal近くの「吉野家」に行って吉牛の牛丼を食べることに。紅しょうがたっぷりのせて紅丼となった牛丼を、味噌汁といっしょにかきこむ。あー、うんまい。牛丼自体もすごい久しぶり。まさにアメリカ産牛肉を使った吉牛、狂牛病は・・大丈夫でしょう(笑)。そして食べ終わった後、生卵が売られているのにふと気がつき大ショック。買うとき探したんだけど見つかんなかったから諦めたんだが。。日本ではいつもかけてたのに(涙)。。。。次回絶対頼むぞ。

ということで、port authority bus terminalからshort lineのバスにのり一路Ithacaへ。ここからまだ5時間かかるんだな。ふー。

で、ようやくIthacaに到着したのが深夜1時半ごろ(明けて16日)。College townで降りて、家まで歩く。うわっ、さむっ。雪あるし。そしてようやく無事家に。

帰路丸一日の移動、しんどかった。30歳こえると、この移動の長さと気温の変化はかなりコタエた・・・。

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旅行記は以上です。書きたいことが山のようにあり大作になってしまいました。これ、最後までちゃんと読んでくれる人、いるんだろうか。。。 ま、いいです。記録という意味もありますから。

といいつつ、さらに総括を書きます(笑)。

たかだかnet 4日の滞在なので知ったことは言えないですが、自分が触れ合ったペルーの人から判断するに、いい人が多い国ではないかな。観光地の人の、観光客への態度もそれほどしつこくないし、タクシードライバーやホテルマン、皆一様にいい人。アジアの観光地にいる人(一般化できないけど)に比べても騙そう騙そうとする姿勢が小さい気がするし、総体として人がよいと思う。これには、インカ時代にあったらしい「アマスア(盗まない)、アマケア(怠けない)、アマユア(だまさない)」の掟が関連してるんじゃないかな。一方、その人のよさが、たかだか200~300人のスペイン兵に、あっという間にあの巨大なインカ帝国が滅ぼされてしまった原因とも言えるのでは。いい人でいることと、正直でいること、だけでは必ずしも権謀術数のpoliticsの世界では生き残っていけないのだろうし(相手も同じ価値感を持っているとは限らないもんね)。そう考えると、なんだか複雑です。

また、NYC(中南米からの移民が多く、町を歩いていても中南米系の顔を良く見るし、スペイン語がよく聞こえてくる)や南米に旅行すると、スペイン語勉強したくなります。実際旅でも、Jennifer Lopezやclubでのチリ人の女の子達ともっとコミュニケーションとれたはず(悔しい!)。自分は大学の時第二外国語として、家族5人のうちフランス語選択だった母親を除く3人がドイツ語を選択していたことから安易にドイツ語を選択したのだけれど、このような仕事につくのなら、最低国連公用語のどれかにしとけばよかったと後悔。。。残りのsemesterで、もしもし、余裕があるなら、スペイン語でも勉強してみようかな。なんちゃって。

今回の旅は、遺跡よし、ご飯よし、人との出会いよし、と、ちょっぴり短かったけれどとても密度の濃い、満足度の高い旅でした。最後まで日本に帰るか、ペルーに行くかを検討していましたが、結局日本でやりたかったラーメンを食べることはNYCで、温泉にはいることはMachu Picchuで双方できたので、結果としてはペルーに行って大正解でした。


ということで、winter break十分に楽しんだので、これからはいよいよ授業モードに入って行きたいと思います。

ペルー旅行記-3

次ぎ、5日目いきます。

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5日目(1月13日)

朝ホテルのチェックアウト時間ぎりぎりまでゆっくり寝てMachu Picchu再訪問。この日は遺跡内部をジックリと。 この町は主に、神殿や広場も含む居住区と段々畑で構成されている。

遺跡は1911年にアメリカ人の歴史学者Hiram Binghamによって発見されたとのこと。この都市は、スペイン人によるインカ帝国征服の際、インカの人々が山奥に逃げ込んで作った都市だ、とか、逃げ込んで作ったような急造な都市ではなくもっと綿密な計画をもって時間をかけて作られたもの(そしたら何故あんな所に作る必要があったんだろうか?)、等の説はあれど未だに建設の目的はまだよくわからないらしい(地球の歩き方は、後者の可能性が高いような書きぶりではある)。 このmysteriousなところも魅力の1つ。

スペイン人の手がはいっていないこのインカ帝国独自の都市の遺跡を見て、僕なりの問題意識で考えたこといくつか。

一つ目:水資源の確保。

人間が生活するにはまずなにより水が必要。農業用水や生活用水の手配をどうしていたのだろうか。

双方とも、供給源としての貯水池などは地形上作れそうにない(都市のすぐ上からまた激しい傾斜が続いている)。恐らく、降雨による表流水や伏流水を最大限集水し、水路等で都市に運び活用するしかないだろう。ペルーは概して雨季乾季が別れている気候だが、2,400mのここでは、ひょっとしたら年間を通じて一定程度降水量があるのかもしれない。実は、気象観測装置が設置されていたのを発見したので(なんでそんなとこに気がつくかな・笑)、現在の雨量データは記録してあるのでは?というか、そういう研究、既にありそうだ。

農業用水については、ざっと見てまわった限り、段々畑に灌漑用水路網が整備されていたような跡は観察できず。ガイドブックに当時のインカ人は灌漑用水路網をきちんと整備していたとの記述があるので、実際はあったのに観光に必要ないということで保存していないか、ないし、ここでの栽培は原則天水等を利用し、余剰水は自然に段々畑を下に流れ結果として田越し灌漑を実施していた、のかもしれない。いずれにせよこれらは想像の範囲を出ないが、思考をめぐらすのもまた面白い。

生活用水については、観光スポットとして「17の"水汲み場"」があり、現在でも水が流れている。当然どっからこの水持ってきてるんだという疑問がわき、調査開始(笑)。観光ルートになっていないところを登ったり、入ってはいけないところに入ってスタッフに注意されながらも、分かる範囲で写真に。






結果、想像通り町の上方で集水したと思われる水を水路に落とし、あとは重力で水汲み場まで引いていた。残念だったのは、その集水地点までは行けなかった事。17つある水汲み場を繋ぐ水路にはカルバートなどもあったりして、ううむとうならされる(ところで彼らはサイフォンの技術も持っていたらしい!)。

当たり前だが、このような環境下で生活をするということで、とても貴重な水を大切に最大限有効利用していたことは間違いないはず。そのための技術も発達していたということだろう。

二つ目:食糧の確保。

もう1つの重要問題。一定期間(説によって、どの程度の期間あの都市で人々が居住していたのかは変わるのだろうが)周囲と隔絶された空中都市で完結した生活を送るとなると、当たり前だが自給自足をしなければならず、従いMachu Picchuには、そんな断崖によく作ったなと思うような段々畑が沢山ある。すごくラフに、簡単な仮定から段々畑の作物生産だけでどれだけの人数が生存可能かどうか、ちょっと考えてみたい。

1.総面積およそ5 sq.kmの3分の2程度が段々畑とのこと(「地球の歩き方」より)。
2.作物は、簡略化の為1作物限定、また乾季に水を供給できる貯水池等も作れないと思われるので、天水で栽培可能な雨季のMaize 1期作と想定。
3.天水に頼っていると想定されることと、また土壌も肥沃ではないだろうから、Maizeの収量は、凡そ2ton/haとする(肥料を投入せず条件の悪い場所ではこの程度)。
4.人々はsubsistenceな生活をしていたと仮定、1人当たりのMaize消費量を、10kg/monthとする(アフリカでの聞き取りを参考)。


これで計算すると、年間の総食糧供給量はおよそ700ton、従い生存可能人口はおよそ6,000人になる。「地球の歩き方」によると、5,000人~1万人が住んでいたとのこと、あながちおかしな数字ではないだろう。

実際は収量がもっと多い可能性もあるし、作物もMaizeだけではなくpotatoやその他多様な作物を栽培していただろう。またこれにリャマやアルパカなどを家畜として飼育し、意外に多様で豊かな食生活だったのかもしれない。

かって繁栄した文明は、周辺農業用地の土壌の地力低下による農業生産量の減少から人口を維持できなくなって崩壊するという説があるが、ここMachu Picchuではどうだったのだろう。そういった知識を持ち、農業生産を継続して行うことで収奪される栄養素を補う為、家畜糞尿を始めとした肥料等を与えていた可能性はあるだろうか。インカ人がMachu Picchuを捨てた理由は段々畑の地力低下だった、なんてこともありうるかもしれない。想像は膨らむ。

三つ目:社会構造。

総面積5 sq.kmのおよそ1/3の地区に約6,000人住んでいた、ということは人口密度が36人/ha(すなわち100m四方に36人)、中野区の人口密度が190人/haなので、このMachu Picchuの状況を考えれば直感的にそれほど密ではないかも。

このような閉鎖系の環境では、秩序を持って社会を維持していかなければ問題が起こりそうだ。ここでは身分によって居住区も分けられていたようで、聖職者は神殿の近く、貴族も標高が比較的高い場所に住んでいたよう。技術者は貴族のすぐそばに居を構えており(多少優遇されていたとのことか?!)、庶民は段々畑の近くに主に住んでいた模様。建物も、神殿や高い身分の住む住居は精巧な石組み技術が使われているが、庶民の住居は粗雑な石組みである。遺跡からそういった身分制度が窺い知れるというのも、感慨深い。後述するようなインカ人の性格もあって、ここでの統治はこのような身分制度も機能してうまく行っていたのかもしれないとまたもや想像してみる。


(段々畑と庶民の居住地)

以上のようなことを考えながら遺跡を見て回る。遺跡を眺めながら、段々畑に農作物が実り、インカ人がこの空中都市で穏やかに生活している様子を想像すると、歴史のロマンを感じざるをえず、感激。

そんなこんなで、Machu Picchuを充分に堪能。ここは間違いなく僕の記憶に強く残る場所になると思う。

そして後ろ髪を引かれる思いでMachu Picchuを後に。Cuscoへ帰る前に、麓の温泉に再度小一時間つかる、ふぅー、やっぱり温泉はいい。次たっぷりとした湯の中につかれるのはいつになるのかな、なんておもいつつ、名残惜しくも温泉を後にし、Cuscoへの帰途につく。



午後3時半Machu Picchu発の電車に揺られること約3時間、夜Cuscoにつき、ホテルへチェックイン。夕食は、2004年にCuscoのベストレストランに選ばれたというバーベキュー料理の店へ。ペルー風のスープ(名前忘れた)と、アルパカの肉を焼いた料理Alpaca a la Planchaを食べた。アルパカはちょっと癖のある味だけどまあ悪くはない。加えてブドウの蒸留酒Piscoに卵白とレモンを加えたカクテル風のPisco sourも飲んでみる。これはおいしい!



夕食後、町をぶらぶらして雑貨屋に入ったりなどする。アルパカ製のポンチョが欲しくなり、店のおばちゃんと交渉して購入。他の店の値段調べる時間もなかったし、あまりいい値切りっぷりではなかったなと自覚はしているものの、

アルパカ製のポンチョ 30ドル
Cuscoでの思い出   Priceless  (Master cardのCM風に)

てなところでよしとしよう(笑)。たぶんこのポンチョ、アルパカ純正ではなく、リャマの毛もはいってるんだろうなぁ。あと、フォルクローレで踊る際にかぶるマスクもあって急に欲しくなりそれもあわせて購入。よし今度いつかネタでかぶろっと。これ、普通に日本とかアメリカでかぶってたら、絶対強盗と間違えられそうだ。

そして夜10時、Machu Picchuで夕食を食べた4人の日本人メンバーで待ち合わせをして、夜のCusco体験ということでclubに行くことに。「地球の歩き方」に書いてあったclubに行って見るとまだ人が入っていなかったため、その時間でも賑わってそうな偶然見つけた別のclubに行くことに。

そこにはダンスフロアの上にいい具合にソファに座れるスペースがあり、とある若者グループの隣に座る。暫く酒飲んでいると、その隣の若者グループと意気投合。チリから来た幼馴染グループとのこと。男1人に女3人で年齢はなんと19~21歳。若っ。男の子が英語しゃべれたので、いろいろ会話を楽しむ。

印象に残ったのは、人種の話。チリでは、スペイン人がインディオをほとんど殺してしまった為、現在スペイン系の顔をしたメスティーソが多いが、ペルーではまだインディオが多く残っており、インディオ系のメスティーソが多く、故にインディオが多いペルーとかつてインディオを殺したスペイン系の多いチリは仲が悪いとか。20歳ぐらいの子達の飲み話だから、本当にそうかどうかわからないけれど、少なくとも現在の人種構成については、Wikipediaのメスティーソの項目に同じ様な話が記載されている。で、その仲の悪さについて、日本と中国みたいなもんだよ、と言っていたらしい(自分は直接聞いておらず、日本人の方に教えて教えて頂いた)。。。そ、そういう理解なんすか。。。ま、それはさておき。

夕飯時に飲んだPiscoについても、その子たちはチリ産が絶対美味い、なんて主張してた。女の子もチリが絶対綺麗なんて自画自賛してたし。

そういえばこの旅行中結構“国”を強調している場面に遭遇した。Machu Picchuでも、アルゼンチンの旗を振っていた奴や、ブラジル賛美を叫んでいた奴を見かけた。

国と民族の関係について、仕事で海外にいくようになってから徐々に思うようにはなってきたし、また多民族国家のアメリカに住むようになってより一層考えるようになってきた。これは一般的に日本では意識しなくてもよかったことなので、なかなかすぐにピンとこないissueではある(もちろん、日本にも考えないといけない事はあるんだけれど)。まだまだ考え込めていないので、今後勉強していければと思う。

さて、深夜1時ぐらいにもなると、もはやフロアは人が寿司詰め状態。。音楽はオールジャンルで、若者向けの南米の曲などもあったらしく、皆たのしそーに踊っていた。この日は、結構若者について行けてた気がする。がんばれおじさん(笑)。

1時半頃皆とお別れし(20歳ぐらいのぴちぴち女の子達とのhug、おじさんうれしいながらも緊張・笑)、宿にもどり就寝。高所最後の日ということで、お酒がんがん飲んで踊ったりしたけど、結局激しい高山病はかからずじまい。ラッキー。

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ココまで。

ペルー旅行記-2

次ぎ、4日目です。

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4日目(1月12日)

朝5時起きでMachu Picchu行きの鉄道に乗るべく駅へ。そこで、なんとも誰かに似た人がいるかと思えば、今の大学のJohnson school 2年目の方がそこに!実は、その方もこのwinter break中にMachu Picchuに旅行すると以前に聞いていたのでそれほどびっくりはしなかったものの、しかし結構な偶然ではある(偶然といえば、昨年末DC旅行の際、スミソニアン博物館でばったりLaw schoolの方とそのご家族にお会いした時もびっくりしたが・・)。

鉄道で聖なる谷を通り、Cuscoから約110km離れた標高約2,000mのMachu Picchu村へ約3時間かけて移動。到着後すぐホテルへチェックイン。男性の僕にはぶっきらぼうな応対をした受付のおにいちゃんが、暫く後にチェックインした日本人女性には妙に親しげに親切に応対しているのを見て、「おいおい、随分応対が違うぢゃないか(笑)」と突っ込むと「no no no」と顔を多少赤くして弁解、それを切っ掛けにすぐ彼とうちとけAmigoに。いいやつだ。荷物を部屋においていよいよMachu Picchuへ。バスに乗って急な斜面をおよそ400m登ること約20~30分、入り口に到着。そして遺跡への道を進んでいくとパッと視界がひらけ、

なんじゃこりゃー(松田優作風に ちょっと使い方違うか

断崖絶壁の上に作られた空中都市の出現。よく言われていることだけど、僕の好きな映画の1つである「天空の城ラピュタ」のモデルになったやに言われているこの都市。まさにパズーの気持ちで、直接訪れることができて大感動(そばにシータはいなかったけど)。あ、その代わり、JohnsonのNさん(男性)はいた!(笑)。



Machu Picchuには2日あてる予定としており、この日は、裏手にあるHuayna Picchu山への登頂をメインに。

地球の歩き方には特別な装備はいらないとはかいてあったので軽い気持ちで向かうものの、見た感じ激しく急。登っていても、足滑らせたら確実に死ぬな、というような断崖絶壁を登るような場所がいくつも。約40分後、無事登頂。これまた

なんじゃこりゃー(松田優作風に これもちょっと使い方違うか

というような風景が眼下に広がる。Huayna Picchuは標高約2,600m、標高約2,400mのMachu Picchuを一望でき、登山の達成感と、Machu Picchuを含む周囲の風景の素晴らしさを暫く味わう(頂上も柵とかないし、結構怖かったんだけどね)。



Huayna Picchu下山後、多少Machu Picchu周辺をみて回った後は翌日への体力温存ということで麓のMachu Picchu村へ戻る(登山でかなり疲れたため早めの撤収)。

次、これまたMachu Picchu旅行の大きな目的のひとつとしていた

温泉!

へ。

そう、Machu Picchu村、別名Aguas Calientesはスペイン語で温泉の意とのことで、公共浴場がある。絶対入ろうと水着ちゃんと持ってきたもんね。早速数ヶ月ぶりの温泉へ。

これがまた気持ちいいぃ~。アメリカでもたっぷりの湯につかることはできないので、本当にリラックス。今日の登山の疲れなども程よくとりながら、1時間ほどつかったあと、次の日帰る前にまた入ろうと心に誓って出ることに。夕方ほんのり暗くなって電灯がつき始めた頃、夕食へ向かう小さな川沿いの道は、

おいおい、ここは伊豆の温泉街か

と見紛う程、雰囲気が似てる  ような気がした(笑)。

夕食はお会いしたJohnson schoolの方と、その他個人旅行されている他の日本人の方2名と計4人で飯。自分はCui Chactadoというクイ(モルモット)料理を食す。食べられなくもない味だが、肉が少ない。



ここで今回の旅行で初めてのビール。飲んだのはCusquenaというクスコのビール、さっぱりしていてのみやすい。

そんなこんなで宿へ帰り、心地よい疲れと酔いで即爆睡。

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ココまで。

ペルー旅行記-1

作成に時間かかってしまいましたが、楽しかったペルー旅行の様子や現地で考えたことなどを、ペルー旅行記と題し、アップします。かなり長くなってしまったので、分割してアップします。お時間のあるときにどうぞ。

まずは、旅の前提としてペルーの社会経済状況と、1日目から3日目まで。

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ペルーの社会経済状況

ペルーのGNI per capita (atlas method)は208か国中113位、2,610 USD、GDP growth rateは6.7%、総GDPに占める各セクターの割合は、農業、工業、サービス業はそれぞれ9.4%、32.8%、57.8%となっている(データはいずれも2005年)。

GNI per capitaは意外に低く、CuscoからMachu Picchuへ向かう電車の車窓から見た人々の暮らしぶりも、納得かもしれない。GDP成長率は、そこそこ高い数字を示している。農業セクターのGDPシェアは思ったほど高くはなかった。

ということで。極めて参考情報。というか、旅行記には全く関係なく、単に趣味で調べてみただけ(笑)。

1日目(1月9日)

昼過ぎのバスでNYCへ。夜NYCへ着きチェックイン。宿は安く上げたいと思い何年か振りでyouthへ(NYCで35ドル/night。さすがに安い)。

夕食はもちろん日本食。始めに行った「ヤキトリ大将」は閉まっていて焼き鳥は食べられなかったものの、ミッドタウンイーストの「かつ濱」でロースかつ定食を久しぶりに食す。かなーり旨い(感涙)。尚、「かつ濱」はあの日本の松屋グループの経営だそう。

夕食後宿に戻るとフランス、ドイツ、オランダ、インド、チリ、日本(日本の大学の4年生の女の子で、一年交換留学?!でBucknellに来ていて日本語クラスでTA頑張っているとのこと)等、宿泊客が集まって話をしていた。入社して稼ぎ出してからの旅行時にはyouthは使わなくなっていたので、あの独特のバックパック旅行中の若者達が集まっている雰囲気は懐かしかった。ただ、オランダからきてたグループにはおっさんもいて、そんな年でyouthを使うとは、なかなかタフだなと思う。

2日目(1月10日)

早朝に宿を出発し、地下鉄A lineとAirtrainを乗り継ぎJFKへ。Delta便でAtlanta入り。Transit中空港のインターネットを30分程やったら10ドル強とられた。高っ。そんなこんなで暇をつぶしAtlanta発Lima行きDelta便に乗り一路Limaへ。Limaではネットで予約していた宿の出迎えの車が来ていてさくっと宿へ。宿でなんとNHKが見られたので、深夜の到着にも関わらず、久しぶりにNHKを堪能後、就寝。

3日目(1月11日)

この日も朝早く起き空港へ。Cuscoは標高3,400m程度に位置し、フライトは有視界飛行の為午前に限られているらしく、また天候によりキャンセルや遅れが多いと地球の歩き方に書いてあったが、自分のフライトはほぼ遅延なくCuscoに到着。中心街へ移動し、Machu Picchuへの鉄道往復チケット購入後宿にチェックイン。昔富士山に登ったとき高山病で頭痛に悩まされた経験があったので、初日は高山病ケアということで、激しく動き回ったり、飲酒は避けようと決心。宿で出してくれたコカ茶を飲み干しいざ町へ。

町自体はさほど大きくはないものの、インカ時代の石組みの上に建てられたスペイン風の建物が連なる街並みはなかなか趣深い。このあたりが世界遺産に登録された所以かなと思う。丁度友達から借りている安藤忠雄の本を読みかけていたこともあり、彼の言う、「単純に旧いものを壊し、新しくつくりかえていくのではなく、残し留めていくことでしか得られない、豊かさがあるのです」(「建築に夢をみた」 NHKライブラリー p 113)ということが、昔の建築が残されている現在のCuscoの市街の豊かさといえるのかもしれない(とはいえ、スペイン人が征服時にインカ時代の街並みを徹底的に破壊して彼らの建物を建築したことを考えると、それはそれでなんとも言えないのだが)。



クスコ市街をみおろせる高台に位置するサン・クリストバル教会に歩いて移動中、さすがに息が切れ、多少頭も痛くなったが、町を見下ろす風景はなかなかのもの。ここで写真を取ってあげたり取ってもらったりしたことを切っ掛けとしてオランダ人カップルと少々雑談。日本にbranchを持っている製造業の会社で働いているらしく、日本人の知り合いも多いとか。こういう旅のふれ合いはいいといつも思う。



そういえばなんとなくここはアジアのネパールやブータンを彷彿とさせる(自分訪れたことないんだけど・・・ま、イメージということで。。)。理由としては顔がまず似ているし(インディオはアジアから来た?!)、標高が高いので強い日差しにより皆日焼けをしており(ヒマラヤとアンデスは当然双方標高高い)、また伝統的な服装の色使いも似ているような気がするため、総体としてなんとなく雰囲気が同じような感覚を持った。是非、機会があればネパールやブータンに行って、この直感が本当かどうか確認してみたいものだ(今のコースにブータン人の友人がいるので、将来会いに行くのも面白いなと)。

市内観光を終え、夜はペーニャでフォルクローレを聞きながら夕食。念の為高山病ケアでアルコール抜き。そういえば卒業した日本の大学にフォルクローレサークルがあって、毎年新入生の入学手続きの時に勧誘の一貫で必ず演奏していた記憶を思い出す。当時同じクラスだった女の子や、会社の後輩(大学も同じ)もそのサークルに入ってたな。



そこでは演奏と同時に民族舞踊も見せてくれ、まずまず。最後には、その民族舞踊の踊り子さんの女性の方に引っ張られ、自分も一緒に踊る羽目に(実はこういうの、まんざらでもない)。ステップがわからず苦労したが、ま、いい思い出。昔沖縄に一人旅したとき、「花」で有名な喜納昌吉のライブハウスでやはり引っ張られて踊らされたことがあったな。実はその様子、このライブハウスに偶然来ていた旅行中の会社の元同期に目撃されていたのだけど。。。

その他の客層は、日本人の団体客、あとは個人客ちらほら。そういえば一人、すんごい綺麗な子がいた(自分にはJennifer Lopezに見えた・・・)。スペイン語喋ってたけどどこの国の子かは不明。ちら見していたところ雰囲気よさそうで、あぁ、いいぃ(笑)。

翌日朝早い為、そのまま宿に帰り早めの就寝。

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ココまで。

Wednesday, January 17, 2007

さっ、寒っ!

先ほど、用事があってcampusに行って、少し早めの夜飯をいつもの中華料理屋(Peace)で食って帰ってきました。

しかし、外いやに寒い。雪は降ってないのだけれど、前に降った雪がとけずに残っています。今日夜の最低気温予報は摂氏約-10度!さっきだって確実に零下だわ。こりゃー寒いよ。

さて、先ほどcampusで、用事に加えspring semesterに履修予定の授業の教科書を一部購入。人がここIthacaに戻り始めていて、campusやcollege townの様子も年末年始と比べ大分活気が出てきた感じ。

途中、同じコース同期生の韓国の女の子にも偶然あって、来週月曜日の授業で会おうね、なんて言って別れた。

そっか、授業始まるの、来週月曜日からなんだな。

いよいよsemesterが始まるって雰囲気が否応なくしてきました。

休みボケ、早く取らねば。

ペルーから戻ってきてます

ということで、15日の深夜にイサカに戻ってます。

顔が焼けて鼻の頭の皮がむけています。高地にいっていたのだなという感じです。

すごく楽しかったので、皆さんへの発信と自分の記録にすべく、今鋭意旅行記作成中です。

そのうちアップしたいと思いますので、乞うご期待!

Thursday, January 11, 2007

Now at Cusco!

I am now at Cusco in Peru.

Although it took much time for the arrangement of this trip, my actual travel is so smooth so far. I could purchase a railway ticket to/from Machu Picchu and book the hotel at Machu Picchu village. I will move there tomorrow and return back to Cusco on 14th. I am really exited to get there.

Then, I´ve fixed my all itinerary (cause I could not make it only for a Machu Picchu trip bofore my departure). Power of internet is so great since I arranged most of the reservation and purchase through internet.

Anyway.

Cusco, what a nice city it is! But it is so easy to get tired due to thin (or less?!) air (cause altitude here is around 3,400 m! as long as my understanding is right).

I just wanna take a rest, thus I am sitting in the internet café. Soon, I will start to move.

I´ll definitely upload some nicer photos after returning back to Ithaca.

Regards,

P.S.
I can check my e-mail but it usually requires some time to reply, thus please forgive me to send my response after 15th.

Tuesday, January 09, 2007

出発

年明け一発目の旅行、明日から行って来ます。

さてどこに行くかというと、南米はPeru。諸事情により、Peru内にはnetで4日しかいられないのだけれど、世界遺産は、リマ歴史地区、クスコ市街、そしてずっと訪れてみたかったマチュピチュと、最低3つは見られるかなぁと思ってます。とても楽しみ。

遅まきながら、南米大陸人生初上陸。日本より南米に行きやすいアメリカに折角住んでいるので、時間があるときに行っておきたい、なーんて思って行き先に選んでみました。

仕事してる皆さん、ごめんなさい。

では皆さん、行って来まーす。

追記
ここんところ、Skypeでたて続けに今海外にいる大学の部活の友人とチャットやIP電話してます。また、ボストンにいる高校の時の友達とも携帯でたまに話すし、LAの大学時代の友人とも連絡とっていたりすると、それぞれの土地に旅行にいきたくなってしまうんだな、これが。Glasgow、Philadelphia、Boston、LAと、行きたいところが多くて困ってしまう。

知らない土地に出かけるということと近い話で、今日友人とRulloffsという店で夕飯を食べてみました。「今年はIthacaをもっと知ってもっと楽しむ」、ということで、Collage townにありながらまだ入ったことのなかったこの店をあえて選択。いわゆる僕のイメージのアメリカ料理(ステーキ、ハンバーガーなど)で、雰囲気もまあまあでした。

Sunday, January 07, 2007

アクセスカウンター

Sitemeterのアクセスカウンター、つけちゃいました。

Tuesday, January 02, 2007

タイタニック

大晦日の夕食は、2006年最後の晩餐ということで、豪勢に、Downtownにある人気のTaste of Thaiというタイ料理屋でSinghaビールとタイ風カレーを食べてきました。美味かった(結局Tip込みで1人で24ドルの支払い)。

イサカの大晦日だから人はいないだろうと思いきや、さすが人気店、わりかし人が入ってました。いるのね、人。

で、なんでタイタニックになるかというと。

大晦日の夕食をタイ料理にしようと思ったのは、DC旅行でタイ料理を食べて美味しかったので是非また食べたいということからだったのですが、そのDCでのタイ料理屋の名前が・・・


Thai Tanic……


おいおい、もうちょっとましな名前あるだろーに(笑)。。。でも味はとてもよかった。

ということで、さらに連想してタイタニックといってすぐ思い出すこと2点。

①ミュージカル

大学4年生の冬、初めてのNYCで観た初めてのミュージカルがタイタニック。当時英語はよくわからなかったけどストーリーは有名だったからだいたいわかったし、最後に出演者が皆で大合唱するところに単純にすごく感動して涙流した覚えがあります。

(今回NYCでみたミュージカルは、A Chorus line。これもよかった。なんでも今すごく人気ミュージカルとのことで連日チケットはsold outらしく、友達のウルトラC手法でチケットゲット。大変感謝。自分まだまだ素人でレベルも低いけれど、英語が多少は理解できるようになっているので、笑いどころも含めストーリーもだいたい楽しめたし、音楽も踊りも直感的によかったと思う)

②ジョーク

タイタニックを題材とした有名なinternationalジョーク。皆さん既にご存知かとは思いますが。

沈みかけたタイタニックで、船内の女性、子供を限られたスペースの救命ボートに優先して乗せなければならない時、自分も助かりたい船内の男性を説得するときの言葉。

アメリカ人の場合

  ヒーローになれますよ

イギリス人の場合

  紳士はそうするものです

ドイツ人の場合

  規則ですから

そして我らが日本人の場合

  皆さんそうしてます・・・・・(笑)


よく各国民性を掴んだジョークだと思う。このイメージを覆すべく我々も、確固たる信念を持って流行や時代に流されることなく本質で物事を判断できるようになりたいものです。

P.S.
昨日のNew Year Party、楽しかったです。Law schoolの方がMainだったけど、遅れて僕のコースの一年先輩の方もお子さん連れて来てくれて、ブラジル人、韓国人、中国人、パキスタン人、日本人でいろんな話題を楽しめ、またご飯も美味しく、正月からまたお酒がっつり飲んでもうた。その中でもブラジル人の男性(奥さんがLaw schoolで勉強中)は、ブラジルにいるときは農業関連の仕事を政府組織でしていて、今はここでentomology(昆虫学。Bioinsecticideの研究してるらしい)のPhDコースに所属しているということで、話題も合ったし。ちょっとだけだけどセラードでの農業の話などもできて(自分そんなに詳しくはないのだけれど)、よかったよかった。

Monday, January 01, 2007

2007年 今年の抱負

ここイサカローカルタイムで、今元旦です(冬時間で日本からマイナス14時間)。

皆様、明けましておめでとうございます。

日本にいるときの31日から1日にかけては必ず実家の藤沢に帰省し、家族とNHKの「行く年来る年」を見ながら年越しそばを食べること、地元の友達と江ノ島に初日の出を見に行って江島神社にお参りすること(日露戦争の児玉大将を祭った勝運の神社、児玉神社へのお参りを去年から加えようとしたんだっけ)、そして家族と地元にある白旗神社遊行寺にお参りにいくこと(宗教的になんら一貫性のないところがまた日本人らしい!)が毎年の慣例となっていました。

今までこの行事をやらなかったのはもちろん日本にいなかった時だけで、それは今年を含めて記憶にある中で3回になります。1回目は、日本での大学院1年目の冬、コートジボアール→パリの一人旅をしていたとき。あんとき年越しは確かコートジボアールのブアケという町で協力隊他の方々と町に繰り出したような気がします。2回目は入社3年目でインドはAP州に出張していたとき。こんときは、日本の友達が遊びに来てくれて、ハイデラバードのTaj KrishnaというFive star (?) hotelでその友達とカウントダウンした記憶があります。

そして今回が3回目。留学先のイサカの自宅で、おとなしく1人で実家から送付してもらった「どん兵衛―てんぷらそば」をおいしく食しながら新年を迎えました。

昨年2006年を振り返ってみると、兎にも角にも留学決定→渡米という大きな出来事があった年でした。留学自体を意識したのは以前いつかのエントリーで書いたように前の大学院生のときでしたが、会社に就職後、仕事をしながら様々なタイミングがあうのに6年半という時間がかかってしまいました(今はこの業務経験があってとてもよかったと思っていますが)。昨年の元旦はまだ出願書類を出す前でしたが、昨年中に留学しないとまずいよなという決意を持っていたやに覚えています。留学したからいいってことは決してないけれど、自分のキャリア形成の過程で大きなものとなるに違いないと思っています。故に、結果としてはいい一年でした。

毎年、一年の計は元旦にありということで、家族で一年の抱負を話すのも習慣なのですが、昨年の抱負は、「飛翔」とした気がします(ちなみに2005年30歳になった年は「岐路」としました)。Evaluateしてみますと、ここ2年ほどは、抱負通りの年になっているような気がしています(抱負っていうか、その年をあらわす熟語ってところかな、だって、岐路が抱負って、おかしいもんね)。

ということで、今年一年の抱負を以下の通りとします(まあ、今年の熟語ってな感じで)。

「熟慮熟考」

留学したことで、また新たに見えてきたこともあります。留学生活を継続するに際し、30代をいかに過ごすか、仕事やプライベートを含め今後の人生をどのようにしていくか、学生という時間を自由に使える身分である今だからこそ、改めてジックリ考えていきたいと思います。

以上、今年もどうぞ、宜しくお願い致します。

2007年 元旦 イサカの自宅にて

P.S.
これから、Law schoolの友人が誘ってくれたNew Year Partyに行って来ます。

おっとそれから、お正月から笑って過ごそうということで、たまたま見つけたYouTubeのビデオのリンクをお年玉として張っておきます。日本の習慣など、意図した笑いの前提となる知識をある程度持ち合わせている人たちを対象として、写真と音楽だけで笑わせるという、ある意味日本的な笑いぢゃないかと思うんだけど。僕は素直に笑えました。